横浜の遊郭と火事の歴史-13

2020年2月22日(土)
横浜遊郭 – 永楽町・真金町-2
最盛期から大震災・大空襲・赤線時代へ

長者町3丁目仮宅~明治15年5月(1882年)永楽町・眞金町への移転始まる~明治21年(1888年)6月30日移転完了~永真遊郭-明治29年(1896年)6月~昭和33年3月(1958年)売春防止法施行猶予期間終了-遊郭閉鎖

横浜市宅地便覧明治44年(1911年)
地番と坪数は分かるが所有者名は空欄だ。

彩色絵葉書に岩亀楼は見当たらない。
私製絵葉書は明治33年(1900年)から使用が認められた。
職業別で調べても貸席、貸座敷、待合には永楽・真金町は含まれていないことがほとんどだ。
多くの細見記も図書館の奥にしまわれ、デジタル化も進まず、見ることも容易ではない。

参照-京浜名家総覧-庭山太郎-明治39年(1906年)等
神風楼-永楽町1丁目6番地
新岡濃楼-永楽町1丁目7番地
第一三日月楼-永楽町1丁目8番地
第二勢州楼-永楽町1丁目8番地
一圓楼-永楽町1丁目8番地
第一和廣楼-永楽町1丁目8番地
壽楼-永楽町1丁目14番地
金勢楼-永楽町1丁目16番地

二葉楼-永楽町2丁目17番地・西洋館、日本館
八幡楼-永楽町2丁目17番地
松島楼-永楽町2丁目20番地
一月楼-永楽町2丁目20番地
萬盛楼-永楽町2丁目22番地
橋本楼-永楽町2丁目22番地
二宮楼-永楽町2丁目22番地
勢州楼-永楽町2丁目23番地
三日月楼-永楽町2丁目26番地
寶槌楼-永楽町2丁目26番地
岩亀楼-永楽町2丁目大門通り西側-真金橋際-(この通りなら永楽町2丁目17番地)
蓬莱-永楽町
川泉-永楽町
いろは-永楽町

番地は通し番号で大門通の東側が一町目、西側が二丁目。
永楽町(一丁目1~16・二丁目17~25)
真金町(一丁目1~11・二丁目12~23)

金刀比羅大鷲神社-真金町1丁目3番地
三笠楼-真金町1丁目11番地
常盤楼-眞金町2丁目14番地
金月楼-眞金町2丁目16番地
天津屋-真金町2丁目19番地
一力楼-真金町2丁目19番地
蓬泉楼-真金町2丁目20番地
永盛楼-真金町2丁目20番地
海月楼-真金町2丁目20番地
金田楼-真金町2丁目20番地
市川楼-真金町
旭大黒-真金町
神風楼-真金町-明治17年移転-明治33年以降No.9(史稿) 

日清戦争
明治27年(1894年)7月25日から明治28年(1895年)4月17日
戦死 1132人・戦傷死 285人・病死 1万1894人
戦死の10倍もの病死者とは、多くは脚気と言われている。
陸軍省医務局公式記録
「我軍ノ脚気患数ハ総計4万1431名・全入院患者ノ約四分ノ一」
「銃砲創(戦傷者)1ニ付キ(脚気罹患者は)実ニ11.23」
戦死者977人に対して脚気による死亡者は4064人。

橋立-防護巡洋艦-松島型3番艦(松島・厳島・橋立)
4217トン・5400馬力・16ノット・主砲32cm(38口径)単装砲・12cm砲11門・47mm砲6門・35.6cm魚雷発射管4門-横須賀造船所
松島・厳島-ラ・セーヌ(フランス)造船所
橋立.jpg

↓神奈川県統計書
永楽町-明治27年(1894年)貸座敷29軒、娼妓552人
眞金町-明治27年(1894年)貸座敷37軒、娼妓453人

永楽町-明治28年(1895年)貸座敷26軒、娼妓513人
眞金町-明治28年(1895年)貸座敷37軒、娼妓625人

永楽町-明治29年(1896年)貸座敷36軒、娼妓738人
眞金町-明治29年(1896年)貸座敷27軒、娼妓542人

永楽町-明治30年(1897年)貸座敷35軒、娼妓784人
眞金町-明治30年(1897年)貸座敷29軒、娼妓580人

永楽町-明治31年(1898年)貸座敷36軒、娼妓819人
眞金町-明治31年(1898年)貸座敷29軒、娼妓572人

永楽町-明治32年(1899年)貸座敷34軒、娼妓883人
眞金町-明治32年(1899年)貸座敷32軒、娼妓649人

永楽町-明治33年(1900年)貸座敷35軒、娼妓707人
眞金町-明治33年(1900年)貸座敷30軒、娼妓509人

永楽町-明治34年(1901年)貸座敷35軒、娼妓667人
眞金町-明治34年(1901年)貸座敷26軒、娼妓373人

永楽町-明治35年(1902年)貸座敷33軒、娼妓738人
眞金町-明治35年(1902年)貸座敷31軒、娼妓481人

永楽町-明治36年(1903年)貸座敷36軒、娼妓759人
眞金町-明治36年(1903年)貸座敷32軒、娼妓515人

日露戦争
明治37年(1904年)2月8日から明治38年(1905年)9月5日
靖国神社資料
戦没8万8429人(戦死戦傷死5万5655人)・病死2万7192人・負傷者15万3584人。
陸軍省医務局編『明治二十七八年役陸軍衛生事蹟』
総病死者2万0159人、脚気以外の病死者1万6095人 (79.8%)・脚気死亡者4064人。
一説に全傷病者35万2700余人中脚気患者21万1600余人、脚気死亡者2万7800余人。
戦艦三笠-1万5140トン・1万5000馬力・18ノット・主砲40口径30.5センチ連装砲2基4門・副砲 40口径15.2センチ単装砲14門・対水雷艇砲40口径7.6センチ単装砲20門・47ミリ単装砲16基・魚雷発射管45センチ発射管4門-バロー=イン=ファーネス造船所ヴィッカース社(イギリス)
戦艦三笠.jpg

永楽町-明治37年(1904年)貸座敷36軒、娼妓705人
眞金町-明治37年(1904年)貸座敷22軒、娼妓463人

永楽町-明治38年(1905年)貸座敷36軒、娼妓747人
眞金町-明治38年(1905年)貸座敷33軒、娼妓444人

永楽町-明治39年(1906年)貸座敷36軒、娼妓134人
注-前年末747人、開業179人、廃業792人、同年末134人
眞金町-明治39年(1906年)貸座敷33軒、娼妓453人
注-前年末444人、開業128人、廃業119人、同年末453人
リストの作成者が永楽町39年の廃業者数と年末の数字を取り違えたとしか考えられない。

永楽町-明治40年(1907年)貸座敷36軒、娼妓755人
眞金町-明治40年(1907年)貸座敷35軒、娼妓478人

永楽町-明治41年(1908年)貸座敷34軒、娼妓761人
眞金町-明治41年(1908年)貸座敷34軒、娼妓628人

永楽町-明治42年(1909年)貸座敷34軒、娼妓734人
眞金町-明治42年(1909年)貸座敷34軒、娼妓638人
1909-横浜開港五十年祭-新岡濃楼・永楽町1丁目7番地、向かいは永楽町1丁目15番地。
1920-横浜開港五十年祭・新岡濃楼.jpg

永楽町-明治43年(1910年)貸座敷軒、娼妓人
眞金町-明治43年(1910年)貸座敷軒、娼妓人

永楽町-明治44年(1911年)貸座敷36軒、娼妓773人
眞金町-明治44年(1911年)貸座敷38軒、娼妓592人

明治45年は大正元年へ

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