横浜の遊郭と火事の歴史-16

2020年2月26日(水)
横浜遊郭 – 永楽町・真金町-5
最盛期から大震災・大空襲・赤線時代へ

長者町3丁目仮宅~明治15年5月(1882年)永楽町・眞金町への移転始まる~明治21年(1888年)6月30日移転完了~永真遊郭-明治29年(1896年)6月~昭和33年3月(1958年)売春防止法施行猶予期間終了-遊郭閉鎖

金毘羅=金比羅
経過を簡略に記せば廓外の横浜新田は金毘羅権現社で廓内は金比羅大権現・大鷲大明神・稲荷大明神。
廓外の金毘羅権現社はのちに本牧へ遷座。
廓内の金比羅大権現・大鷲大明神・稲荷大明神は吉原町を経て高島町へ。
吉原町時代に廃仏毀釈・神仏混交の廃止が起きて名前が二転三転し、祭神も入れ替わっている。

酉の市に関しては港崎時代からと史稿は記している。
金比羅大権現・大鷲大明神・稲荷大明神は港崎時代、吉原町で金比羅神・鷲大明神・稲荷明神から金比羅社・大鷲神社・稲荷神社、そして高島町では金刀比羅神社・大鷲神社、稲荷は情報がない。

横浜市史稿(昭和7年)神社・教会編と横浜市史稿(昭和7年)風俗篇 では大鷲神社について説明が食い違っているというより風俗編のダイジェストが神社・教会編で文中の「其以前」からに続く部分を省略したようだ。

眞金町へ移るに際し伊勢山へ大鷲神社を一時預けた後、金刀比羅神社に名前が落ち着き真金町一丁目三番地へ遷座、だが金刀比羅大鷲神社とされたのはいつかの情報はない。
祭神の二転三転に関しては諸説あり、どれが正解かは金刀比羅大鷲神社を尊重したい。
此の部分は神社のホームページとは隔たりがあるが、一個人の考察考証としてご容赦ください。
1860 -横浜本町并ニ港崎町細見全図-五雲亭貞秀-万延元年(1860年)-金毘羅権現社
1860 -横浜本町并ニ港崎町細見全図-五雲亭貞秀-万延元年(1860年)-金毘羅.jpg

1957-昭和30年代-金刀比羅大鷲神社
1957-昭和30年代-金刀比羅大鷲神社.jpg

横浜市史稿(昭和7年)風俗篇 
大鷲神社511P(コマ番号340)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1213723
横浜市史稿(昭和7年)神社・教会編 
金刀比羅神社(真金町)412P(コマ番号248)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1213567

金刀比羅神社・ 本殿桁行二間、拝殿桁行三間、神楽殿桁行三間
毎月十日が縁日 境内神社大鷲神社 
太田町六丁目(境町一丁目)付近に新田開拓時(弘化四未年正月)横浜村大田源左衛門が讃岐金毘羅大権現を勧請した(神社編・教会編には昭和三年二月二十日新山下三丁目五番地五に鎮座と記されている。この神社も港崎大火の後各地に移転したらしいが現在あるかどうか不明)ことに習い港崎岩亀楼楼主佐藤佐吉により象頭山金毘羅大権現を港崎に勧請。

当初は仮殿の小さな物だったが後遊女揚代から文久銭一個四文を集め二間四方の朱塗りの本殿が落成した。
その後吉原町遊郭、高島町遊郭を経て明治15年に真金町に遷座した。

大鷲神社(明治八年十一月九日の横浜毎日新聞の記事に賑わいの様子が書かれている)は真金町移転時に伊勢山に合祀し遥拝所のみとしたが後に移されて境内神社となった。祭神は手力雄命、日本武命の二柱。

横浜市史稿(昭和7年)風俗篇に寄れば当社は元高島町遊郭にあったものを遊郭移転と同時に遷座したものであるが其以前に於ける港崎遊郭や吉原町遊郭時代にも祭礼は酉の市と同時に挙行されたのである。而してこの神は明治4年板行の「横濱一覧の真景」にも金刀比羅神社の境内神として載せられてある。

想うに従来の関係から岩亀楼楼主竝に其他の楼主が港崎乃至吉原町各時代から引き続いて其繁栄祈願の為に江戸吉原に倣い鷲大明神を勧請したものであって毎年十一月酉日に其祭が廓の一行事として行われ、今日までも猶盛大に挙行されつつあるのである。

明治15年(1882年)4月-真金町に遷座
祭神は神社公式ページより
金刀比羅大鷲神社-神奈川県横浜市南区真金町1ー3
https://yokohama-torinoichi.jimdofree.com/
金刀比羅神社-祭神 大物主之命・崇徳天皇
大鷲神社-祭神 手力雄命・日本武尊・天之鳥船命
例祭-11月酉の日
稲荷神社-祭神 宇迦魂命 
例祭-2月午の日

金刀比羅神社-真金町1丁目3番地
金刀比羅神社-永楽町1丁目3番地.jpg

金刀比羅神社-真金町-酉の市
金刀比羅神社-永楽町-酉の市.jpg

香川県琴平町の象頭山に鎮座する金毘羅大権現、本地仏不動明王。
クービラにちなむ金毘羅にさらに崇徳天皇が合祀された。
神仏分離で寺支配が解かれ、琴平神社が金刀比羅宮となり主祭神を大物主神・崇徳天皇とした。

浅草 鷲神社公式HP御由緒より
鷲神社は天日鷲命(あめのひわしのみこと)日本武尊(やまとたけるのみこと)をお祀りした由緒正しい神社です。現在は「おとりさま」として一般にも親しまれ崇敬を集めており、また十一月の例祭も現在は「酉の市(とりのいち)」として広く知られています。

社伝によると天照大御神が天之岩戸にお隠れになり、天宇受売命が、岩戸の前で舞われた折、弦(げん)という楽器を司った神様がおられ、天手力男命が天之岩戸をお開きになった時、その弦の先に鷲がとまったので、神様達は世を明るくする瑞象を現した鳥だとお喜びになり、以後、この神様は鷲の一字を入れて鷲大明神、天日鷲命と称される様になりました。
天日鷲命は、諸国の土地を開き、開運、、殖産、商賣繁昌に御神徳の高い神様としてこの地にお祀りされました。

後に日本武尊が東夷征討の際、社に立ち寄られ戦勝を祈願し、志を遂げての帰途、社前の松に武具の「熊手」をかけて勝ち戦を祝い、お礼参りをされました。その日が十一月酉の日であったので、この日を鷲神社例祭日と定めたのが酉の祭、「酉の市」です。この故事により日本武尊が併せ祭られ、御祭神の一柱となりました。

江戸時代から鷲神社は、「鳥の社(とりのやしろ)」、また「御鳥(おとり)」といわれており、現在も鷲神社は「おとりさま」と一般に親しまれ崇敬を集めています。十一月の例祭も現在は「酉の市」と広く知られていますが、正しくは「酉の祭(トリノマチ)」と呼ばれた神祭の日です。

花畑大鷲神社 公式ホームページ 由緒
大鷲神社の御祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)です。

 日本武尊は第12代景行天皇の皇子としてお生まれになりました。母は稲日大郎姫(いなびのおおいらつめ)と伝えられております。兄は大碓尊(おおうすのみこと)、弟である日本武尊はまたの名を小碓尊(おうすのみこと)、倭男具那命(やまとおぐなのみこと)とも申しあげます。

 日本武尊は東征の帰路、当地に本陣をおき、多年にわたり夷賊に苦しんでいた人々を救済したと伝えられます。人々は尊の善政に厚く感謝し、崩御ののちに日本武尊をお祀りしました。御祭神にちなみご命日とされる11月酉の日に神恩感謝の祭が行われるようになりす。この祭がのちに酉の市と呼ばれるものです。

 武運長久・開運守護の神として信仰が篤く、中世、新羅三郎源義光が兄八幡太郎源義家の援軍として後三年の役に向かう途次、当社に戦勝の祈願をなさいました。

 後三年の役に勝利した義光は帰途、再び当社に奉賽し、社殿を改築「金の前立の兜」及び武具を奉献したと伝わります。

 幕末、幕府の命により義光の子孫である佐竹氏が本殿を改築。安政元年(1854)から明治8年まで20余年の歳月を要し、竣功を迎えました。総欅造りで数知れぬ大小の彫刻が随所に見られます。特に正面にある向拝柱に彫られた「昇り龍・降り龍」は荘厳で、左甚五郎13代目後藤与五郎の作と言われております。



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