横浜の遊郭と火事の歴史-5

2020年2月13日(木)
横浜遊郭 – 新吉原・吉原町遊郭-2
慶応3年5月29日(1867年7月1日)~明治4年10月27日(1871年12月9日)焼失-遊女屋の半分が燃え落ちた。
注-明治4年11月焼失(史稿.風俗編)
火災の後
長者町仮宅と吉原町の両方での営業が高島町移転まで続いた。

吉田新田北一つ目沼に隣接する田畑を造成して出来た新吉原、記録には吉原町となる場所だ、令和の今場所が特定できるのは幸いにも洲干弁天社が隣へ遷座し現存しているからだ。
遊郭移転後の明治2年(1869年)隣の羽衣町に洲干弁天社が遷座し厳島神社(横浜弁天社)と名が改められた、もとは一万二千坪とも言われた境内を誇っていた、遷座当時元の一割にも満たない社地も令和の今はさらにその半分程度だ。
御多分に漏れず明治の廃仏毀釈で弁財天から市杵島姫尊、多紀理姫尊、多岐都姫尊(3女神・神社庁ママ)へと主祭神が替わった。

当時吉田橋南・西詰には野毛からくる吉田町に関門が残り、関内から鉄の橋(かねのはし・吉田橋)を渡れば関門前を抜けるえもん坂、見返り橋(姿見橋)を渡り姿見町に入れば両側に煮売家に小商人の店が並び大門口はすぐそこに、廓に入れば仲乃町ここは新吉原町と巷間に言われた場所。
入って左に見番と町会所、その周りには案内茶屋、今でいう観光案内も引き受けていた。
見番裏手東側に青柳町そこには芸者屋(置屋)と小商人、案内茶屋の裏手西詰には茶屋に料理屋、萬長屋18軒の局見世がたち並ぶ和花町(かずはなまち)。
仲乃町から十字に交差する港町は昔ながらの花魁道中が行われるメインストリート。
その先南側の裏手は局見世が立ち並ぶ比翼町、壽長屋12軒・千歳長屋23軒・寶来長屋15軒・末廣長屋16軒という盛況。

東詰めには金比羅・大鷲神社・稲荷に病院、その手前南側は梅が枝町で小商人に湯屋があった。
港崎の半分程度になったとはいえ八千坪の埋立地、横浜駅の開業前に火事で半減という悲劇、局見世はほとんどが燃え落ち長者町九丁目仮宅へ移転。
出世楼裏方からの出火、との情報もあるのだが、明治4年11月午前郭内西方神風楼裏長屋の局見世から失火と史稿は伝えている。
長者町の整備は明治3年このころ九丁目の橋に長者橋と名がついたらしい、ここは令和の今でも福富町で有名な歓楽街。

1872-改正新刻横浜案内絵図YOKOHAMA OF MAP-五葉舎万寿老人-明治5年(1872年)部分
1872-改正新刻横浜案内絵図YOKOHAMA OF MAP-五葉舎万寿老人明治5年(1872年).jpg

1871-横浜弌覧之真景-橋本玉蘭齋-明治4年(1871年)-吉原町遊郭部分
1871-横浜弌覧之真景-橋本玉蘭齋-明治4年(1871年)-吉原町遊郭.jpg

1871-横浜弌覧之真景-橋本玉蘭齋-明治4年(1871年)
http://www5f.biglobe.ne.jp/~kazuya22ai/suihuyou/yokohama1-7.html

横浜停車場(初代横浜駅)竣工
明治5年3月15日(1872年4月22日)
横浜駅仮営業-横浜~品川間-1日2往復-明治5年5月7日(1872年6月12日)
横浜駅全面開通-横浜~東京間-1日9往復-明治5年9月12日(1972年10月14日月曜日)
建設中は東京駅と言われ開通後に新橋駅と改められ、当時停車場、駅ではなくステーションと時刻表に出ている。

横浜居留地と周辺の火災

慶応4年(1868年)1月7日(1868年1月31日)
神奈川宿大火、9町村1200戸焼失。
神奈川新宿村、神明町、浦島町、西子安村、東子安村を焼き生麦村並木まで延焼して鎮火、民家1200~1300戸が焼失、寺では良仙寺、長延寺、観福寿寺など焼失。

明治3年11月15日(1871年1月5日)
居留地86番のホテル全焼

明治3年12月11日(1871年2月1日)
南仲通り四丁目の薬湯業油井長五郎方より出火、南仲通りを中心に本町通り弁天通りの三、四丁目ほぼ全焼。

明治4年10月27日(1871年12月9日)
横浜吉原町遊郭焼失-遊女屋の半分が燃え落ちた。
注-明治4年11月焼失(史稿.風俗編)
郭内西方神風楼裏長屋の局見世から失火、犠牲者30余名。
全焼
伊世楼(伊勢楼)・松永楼・出世楼・静松楼・甲子楼
二見楼・大豊楼・三国楼・神風楼
局見世-比翼町
壽長屋・千歳長屋・寶来長屋・末廣長屋


長者町9丁目仮宅
明治4年(1871年12月)~明治5年(1872年10月)

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