Tokyo-12

Tokyo-12
中央区
20年11月12日(木)

中央区の寺社-1

箱崎町
安政6年板の切絵図では、箱崎川に面し東西に箱崎町一・二丁目が並び、南部は武家地だった。
一丁目の河岸地は「山谷河岸」と呼ばれていた。
明治5年(1872年)-下総関宿藩久世氏邸跡を二丁目に併合。
下総古河藩土井氏下屋敷等の武家地は三・四丁目を起立。
三丁目は御船蔵。
明治11年(1878年)11月2日-東京府日本橋区箱崎町。
明治22年(1889年)5月1日-東京府東京市日本橋区箱崎町。
明治38年(1905年)-三・四丁目に埋立地を編入。
昭和18年(1943年)7月1日、東京都日本橋区に所属。
昭和22年(1947年)3月15日-日本橋区と京橋区が合併、中央区成立、東京市中央区日本橋箱崎町。
旧日本橋区の町名は例外もあるが日本橋〇〇町となった。
昭和51年(1976年)1月1日-住居表示実施、丁目解消、現行の日本橋箱崎町。

箱崎川
首都高速道路および東京シティエアターミナル建設のため昭和46年(1971年)に本流が、昭和47年(1972年)に支川が埋立てられ消滅した。
行徳河岸、蠣殻河岸、永久河岸、菖蒲河岸があった。

永久稲荷神社
中央区日本橋箱崎町22-11
旧住所表示-東京市日本橋区箱崎町二丁目
箱崎町河岸永久橋際-箱崎町河岸産土神
何時現在地へ遷座したかの情報はない、箱崎川埋め立てで現在地へ遷座した可能性がある。
創建-年代不詳。
祭神は神社庁に出ているがほかに情報はない。
祭神-倉稲魂命・猿田彦神。
民家かと間違えそうだが中には祭壇が飾られていて、庭にも小さな社がある。
中央区史に旧別当延寿院と有る。
元は鳥居と思われる石柱に「明治四十二年五月吉辰 神社主任 田中荷徳」とあるそうだ。
中央区立京橋図書館-郷土室だより164号・令和元年7月16日号
永久橋-橋辺に永久稲荷の社がある故、かく名をつけたるなり。
ほかにも橋の名の由来が「箱崎町のある島を永久島と呼ぶ」「永井・久世の両家によって架けられ」とある。
元禄17年(1704年)または3月14日改元で、宝永元年(1704年)に架けられ、はじめ浜町新橋と呼ばれた。
明治9年(1876年)-「明治東京全図」・永久稲荷
明治9年(1876年)-「明治東京全図」・永久稲荷.jpg

高尾稲荷神社
中央区日本橋箱崎町10-7
江戸時代の遊女高尾太夫が仙台藩主伊達綱宗候に切り殺され、遺体が引き揚げられた当地に、彼女の神霊高尾大明神を祀ったのを起源とすると伝わる。
祭神-高尾大明神
昭和20年(1945年)3月10日-東京大空襲、焼失。
昭和50年3月-再建工事の折り、旧社殿下より高尾太夫の実物の頭骸骨壺が発掘されたと云う。
高尾稲荷社の由来
高尾稲荷-由来.jpg
高尾太夫墓碑
高尾太夫墓碑.jpg
豊海橋北詰西側の案内板
高尾稲荷起縁の地.jpg

高尾-万治高尾(仙台高尾・道哲高尾)
新吉原京町1丁目、三浦屋四郎左衛門抱えの遊女で二代目高尾太夫
隅田川の三つ又あたりの楼船上にて吊り斬りにされ、川中に捨てられたと云う。
高尾の亡骸は北新堀河岸に漂着して後、手厚く葬られたといわれる。
豊海橋北詰西側の案内板によればちと疑問がわく記述だ。
万治2年(1659年)12月に死んだはずが、頭蓋骨が漂着したのが宝永年間の正月なら最初でも1705年だ。
万治3年(1660年)7月18日-幕府より綱宗は21歳で強制隠居。
高尾の墓所は東京都豊島区西巣鴨4-8-42の西方寺(土手の道哲、元は新吉原近くの浅草日本堤にあったが、昭和初期に移転。)
道哲の碑には万治3年12月25日(燕石十種)とあったそうだ。
これだと綱宗隠居後になってしまう。
新吉原三浦屋・高尾太夫の墓(東浅草2丁目にある春慶院内)
高尾太夫の墓は、笠石の塔婆で、墓所に上がる石段の左手に立っている。
今は文字が判読できないが、万治2年(1659年)12月5日と命日が記されていたそうだ、「燕石十種」でもそのように記している。
二代高尾出身地とされる那須塩原温泉元湯の記念碑「高尾塚」によれば、寛永18年(1641年)湯本村(現在の塩原温泉元湯)に生まれるとある。

『伽蘿先代萩』(めいぼく せんだいはぎ)-安永6年(1777年)4月
伊達騒動を扱った最初の歌舞伎狂言は、正徳3年(1713年)正月、江戸市村座で上演された『泰平女今川』。
伊達騒動を扱っている話は多く存在し「赤穂義士」と同じように鎌倉時代・室町時代へ舞台を移しその中へ色を添えるために高尾の話を持ってきたか。
二代高尾はこの時代ではないという説もあり、時代を合わせるために墓を建てたかもしれない。
現代でもNHKの大河ドラマを見て歴史と勘違いする人がいるくらいだから、江戸時代の人たちが芝居の筋に伝承を事実だと信じても可笑しくない。


元徳稲荷神社・綱敷天満神社
中央区日本橋浜町2-3-5
河村徳エ門が伊勢神宮の外宮、豊受大神宮より分け御霊を受け、小石川の自分の屋敷内に祀った。
振袖火事・明暦の大火-明暦3年1月18日(1657年3 月2日)~20日(1657年3 月4日)後に屋敷替えとなり、堅川沿い、今の墨田区立川3丁目の三ッ目通り三ノ橋の袂に遷宮して一般市民の参拝が出来るように開放しました、本所徳右衛門町成立。
現在も墨田区立川3の三之橋南詰に元徳稲荷神社がある。
墨田立川の元徳稲荷神社の由来は、伏見稲荷より神璽を遷して祀るとある。
元徳稲荷神社は、当地に屋敷のあった細川公が、元徳稲荷神社の分霊を懇請して建立。
元徳稲荷神社に同町内にあった綱敷天満神社を合社。
祭神-記載文書なし。
大正12年(1923年)9月1日-関東大震災、被災状況不詳。
昭和20年(1945年)3月10日-東京大空襲、被災状況不詳。
元徳稲荷神社綱敷天満神社-由緒
元徳稲荷神社綱敷天満神社.jpg
墨田 元徳稲荷神社 由来
墨田 元徳稲荷神社 由来.jpg

浜町
大川端を里俗に「浜町」と呼んだ。
明治5年(1872年)-旧武家地を中心に正式に浜町一~三丁目を起立。
明治11年(1878年)11月2日-東京府日本橋区浜町。
菖蒲町を三丁目に編入。
明治22年(1889年)5月1日-東京府東京市日本橋区浜町。
大正12年(1923年)9月1日-関東大震災後に浜町公園設立。
昭和18年(1943年)7月1日-東京都日本橋区浜町。
昭和22年(1947年)3月15日-日本橋区と京橋区が合併、中央区成立、中央区日本橋浜町。
旧日本橋区の町名は例外もあるが日本橋〇〇町となった
昭和46年(1971年)1月1日-住居表示実施、日本橋久松町の一部を二丁目に編入、現行の日本橋浜町一~三丁目となる。


笠間出世稲荷神社
中央区日本橋浜町2-31-1
旧住所-久松町36番地
笠間稲荷神社明治座分社
近くに鎮座する笠間稲荷神社東京別社からの分社です。
お狐様-左は巻物、右は宝珠を咥える。
耳が大きい(太い)尾は扁平で尖っている。

不死鳥の明治座
明治座は両国の小屋掛けから久松町36番地に明治6年(1873年)に移ってきた、稲荷を勧請したのはこの頃と伝わる。
当時は喜昇座(東京十座)、火災焼失を繰り返し久松座・千歳座と験を担いで度々名前が変わり明治26年(1893年)明治座となって落ち着いた。
大正12年(1923年)9月1日-関東大震災、焼失。
昭和3年(1928年)-浜町に移転し、再建。
昭和20年(1945年)-東京大空襲焼失。
昭和25年(1950年)- 株式会社明治座設立。再建。
昭和33年(1953年)-前年の漏電火災で焼失、再建。


笠間稲荷神社東京別社
中央区日本橋浜町2-11-6
旧住所表示-東京市日本橋区久松町三九
創建-江戸時代末期に笠間藩主牧野貞直公が、本社より御分霊を奉斎して建立。
明治6年12月-久松町に遷座。
大正12年(1923年)9月1日-関東大震災、焼失。
直後再建。
昭和20年(1945年)3月-東京大空襲、焼失。
昭和28年(1953年)9月-社殿再建。
御社殿内に末社の寿老神社と晴雲神社がある
日本橋七福神
岩本町藍染稲荷(元岩本町二丁目)が末社へ。
多くの稲荷からお狐様をお預かりしているようだ。


ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント