Tokyo-13

Tokyo-13
中央区
20年11月13日(金)

中央区の寺社-2

亀井町
天和年間(1681年~1683年)-寺院・武家屋敷が移転し、跡地に町屋を起立。
明治2年(1869年)-北の元岩井町埋立地、柳原岩井町納地が合併。
明治9年の明治東京全図では元岩井町。
明治11年(1878年)11月2日-東京府日本橋区亀井町。
明治22年(1889年)5月1日-東京府東京市日本橋区亀井町。
昭和7年(1932年)-南の大部分は日本橋区小伝馬町三丁目の一部に編入となり消滅。
残りの部分は神田区亀井町(昭和33年に千代田区神田材木町に編入)。

竹森神社
中央区日本橋小伝馬町19-4
旧住所表示-東京市日本橋区小伝馬町三丁目
嘉永3年(1850年)の江戸切絵図では亀井町の竹森イナリ、稲荷を社号から外した日時は特定できなかった。
創建-年代不詳。
神体は伏見稲荷からもらいうけ、俗に「江戸七森」の一つに数えられて、江戸市中、数多い稲荷神社の中で由緒深いものとされている、と由緒にあった。
江戸時代よりこの付近に竹やぶが多く、竹につながる町、竹職人の町ともいわれ、竹藪にちなんで竹森神社と称した。
大正12年(1923年)9月1日-関東大震災、被災状況不詳。
昭和20年(1945年)-東京大空襲、被災状況不詳。
祭神-記載文書なし。
お狐様-鳥よけネットの中
左は宝珠を咥え、右は巻物を咥え、阿吽共に脚立ち。
「江戸三森」はむかしから云われていたが「江戸七森」「江戸二十一森」などどこで造のだろう、日本三景は揺るがないが、三大〇〇と名乗る様々な事物と同じなのか。
竹森神社a-平成25年(2013年)09月03日
竹森神社a-平成25年(2013年)09月03日.JPG
竹森神社b-平成25年(2013年)09月03日
竹森神社b-平成25年(2013年)09月03日.JPG

芳町(葭町)-元吉原
元和3年(1617年)-庄司甚右衛門を惣名主として江戸初の遊郭、「葭原」の設置を許可した。
明暦2年(1656年)10月-江戸市域の拡大により遊郭は浅草に移転。
跡には中村座をはじめ歌舞伎の芝居小屋が建ち並んだ。
陰間茶屋が盛んになったのもこの町から。
天保12年(1841年)-中村座の焼失で芝居小屋群は浅草猿若町に移転。
芳町は俗称-甚右衛門通りの南北にあった堀江六軒町、堀江六軒町新道、堺町横町の総称。
町には天保の改革での岡場所取り締まりで深川から逃れてきた芸者で最盛期を迎えることになる。
明治2年(1869年)-町の統合
甚右衛門通りの北側の堺町横町と堀江六軒町新道を合併し正式に起立。
南側は西側に新葭町が起立し、東側にあった堺町横町は元大坂町に編入。
明治11年(1878年)11月2日-東京府日本橋区芳町。
明治22年(1889年)5月1日-東京府東京市日本橋区芳町。
昭和8年(1933年)-蛎殻町一・二丁目、新葭町、元大坂町、葺屋町、堺町の各一部を合併して町域を拡げ、芳町一・二丁目を起立。
昭和18年(1943年)7月1日-東京都日本橋区芳町。
昭和22年(1947年)3月15日-日本橋区と京橋区が合併、中央区成立。
東京都中央区日本橋芳町
旧日本橋区の町名は例外もあるが日本橋〇〇町となった。
昭和24年(1949年)-花街・芸妓278名、置屋177軒、料亭・待合を合わせて121軒で復興。
昭和55年(1980年)1月1日-住居表示実施、日本橋人形町一、三丁目に編入となり消滅

新葭町-芳町河岸
明治2年(1869年)-八町河岸の1つの堀江六軒町と甚左衛門町が合併して起立。
昭和8年(1933年)-芳町一・二丁目、小網町二丁目のそれぞれに編入となり消滅。
中央区日本橋人形町一、三丁目、日本橋小網町の一部。

人形町
人形町は通りの名で大坂町、島町、住吉町、和泉町、堺町、芳町がこの通り沿いにあった。
昭和8年(1933年)-正式に町名が「人形町」とされた。
新和泉町、住吉町、蛎殻町二丁目、松島町、元大坂町、芳町、堺町をまとめ、人形町一丁目・二丁目・三丁目とした。
昭和20年(1945年)3月10日-東京大空襲、日本橋地区では人形町は焼け残った。
戦後アーケード街などが完成し町は東京復興の先駆けとなった。
昭和51年(1976年)1月1日-住居表示実施。
一・二丁目に日本橋蛎殻町一・二、四丁目、日本橋芳町一丁目、日本橋小網町二丁目、日本橋浪花町の各一部を併せて町域を拡げ、新たに人形町一・二丁目を編成。
人形町三丁目はそのまま存続。


茶ノ木神社
中央区日本橋人形町1-12-10
下総佐倉掘田家の中屋敷にあった守護神として祀られていたと云う。
堀田家では年一回初午祭の当日だけ開門し、一般の参拝を許したと云う。
大正12年(1923年)9月1日-関東大震災、被災状況不詳。
大正12年関東大震災後は喜誠会の人たちの力で社が建立。
昭和8年以降-蛎殻町2丁目北部町会・人形町1丁目西部町会がお守りし、茶の木神社世話人会が発足。
昭和20年(1945年)-東京大空襲、被災状況不詳。
昭和35年(1960年)-日比谷線人形町駅の構築の際、当社がその計画区域内であったため、一時は保谷市(現西東京市)の東伏見稲荷神社に遷座合祀され地下鉄駅完成後に再びこの地に戻された。
昭和60年(1985年)-布袋尊を遷座(日本橋七福神)。
平成20年(2008年)-社殿再建。
祭神-倉稲魂大神
お狐様-阿像は鍵、吽像は宝珠、共に鳥居から入る参拝者を見ている。
疑問の残る由来書ですが神社がいいなら仕方ないでしょう。
茶ノ木神社-由来
茶ノ木神社-由来.jpg

佐倉藩堀田家について
老中首座を務めた堀田正亮が出羽山形藩から10万石で下総佐倉へ国替え。
後に佐倉藩は11万石へ加増、次代は正順(京都所司代など)、その次が正時、正愛と続き老中首座を務めた正睦(まさよし)。
幕末に最後の藩主となったのは子供の正倫。
江戸切絵図で安藤家の屋敷とされている新大橋下流三つ又付近(現浜町3丁目1-1)の屋敷は嘉永3年板では安藤長門、安政6年再板で堀田備中に変わった。
この頃の堀田家は堀田正篤(まさひろ)、後の老中首座正睦のことだ。
この地は明治になって島津忠義の屋敷地(明治9年東京全図)になる。
堀田家下屋敷のあった麻布には、堀田坂がその名前を残している。


橘稲荷神社
中央区日本橋人形町3-8-6
創建-年代不詳。
御殿山より江戸城内へ移り、さらに岡本玄冶の邸があった当地へ移されたと云う。
岡本玄冶の元姓橘に因んで、橘稲荷と称された。
江戸期には新泉町といわれたが、将軍家御典医・岡本玄冶の邸があったことから、一帯を玄冶店と俗称した。
お狐様-阿像脚立ち・吽像巻物を咥えている。
祭神-記載文書なし。

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