Tokyo-30

Tokyo-30
台東区
20年12月8日(火)
台東区の寺社-2

加賀美久米森稲荷神社
台東区浅草橋三丁目16-8
旧住所表示-東京府東京市浅草区浅草猿屋町九
創建-加賀美太夫の邸内社「加賀美稲荷社」
次の資料を用いるサイトが多いが当てにしていいのだろうか。
加賀美太夫、条太夫という越後国猿屋村の猿曳が諸国漂泊の末、江戸にやってきた。やがて本業の芸と加持祈祷の評判が高まった。そのころ、徳川将軍が不治の病にかかり、すぐれた祈祷師を天下に求めた。さっそく、彼らは城中に招かれ病気平癒の祈禱をした。すると、将軍の病はみるみる快癒にむかったので褒賞として、現在、神社のある土地に猿楽町の名を賜わって、永住することを許された。(東京都神社名鑑より)
猿楽町は現在渋谷区と千代田区神田にある、神田の猿楽町は観世大夫一族の屋敷地に由来するが上記の猿楽町とどういう繋がりがあるのか不明なので、切絵図を開き稲荷の場所を見ると猿屋町(さるやちょう)と出ている。
国会図書館〔江戸切絵図〕-嘉永3年(1850年)版
浅草御蔵前辺図-猿屋町
猿屋町.jpg
社号標は補強がしてあり、社脇の道側に昔の鳥居の柱らしきものが残っている。
上部が折れているので不明だが山に有の字らしき跡が残り「天保五歳甲午春二月初午」は、はっきりしている。
祭神-記載文書なし。
鳥越神社の境外末社。

浅草猿屋町
豊島郡峡田領鳥越村-寛文7年(1667年)に町屋となる。
享保17年(1732年)3月28日-浅草本蔵寺門前からの出火で類焼。
浅草諏訪町西側の堀田相模守屋敷跡に代地を与えられ、浅草猿屋町代地と称した。
文化・文政期(1804年~1830年)の家数-浅草猿屋町170軒・浅草猿屋町代地120軒(町方書上)。
町名の由来-二通りあって、越後猿屋村から出て来た猿屋加賀美太夫が住んでいたから、猿引き(猿回し)が多く住んでいたとも。
明治2年(1869年)-浅草猿屋町代地が浅草新猿屋町と改称。
明治2年(1869年)-浅草猿屋町は浅草末永町となるも元に戻る。
明治11年(1878年)11月2日-東京府浅草区浅草猿屋町。
明治22年(1889年)5月1日-東京府東京市浅草区浅草猿屋町。
明治44年(1911年)-町名につけていた浅草は昭和22年(1947年)まで廃止された。
昭和9年(1934年)-鳥越二丁目、浅草橋二丁目・三丁目に編入となり猿屋町消滅。
新猿屋町は駒形一丁目に編入され消滅。
昭和18年(1943年)7月1日-東京都浅草区。
昭和22年(1947年)3月15日-浅草区と下谷区が合併、台東区を新設。


石塚稲荷神社
台東区柳橋一丁目1-15
創建-年代不詳。
浅草御蔵前元旅籠町の居住者有志が、稲荷大神の夢想の告げにより、掘井戸より宝石出現しこれを勧請して創建と伝わる。
元禄元年(1688年)-浅草御蔵御火除御用地として召し上げられ、柳橋へ移転。
祭神-倉稲魂命
大正12年(1923年)9月1日-関東大震災、被災状況不詳。
昭和20年(1945年)-東京大空襲、被災状況不詳。
鳥居の扁額には火伏神石塚稲荷神社。
お狐様は鳥よけの網の中。
兼務社は第六天榊神社。
玉垣の裏に社号標-昭和42年としてある。


篠塚稲荷神社
台東区柳橋一丁目5-1
創建-年代不詳。
正平年間、新田義貞の家臣篠塚伊賀守重廣が当地にあった稲荷社に祈願を続けていたことから、「篠塚稲荷大明神」と称されたと云う。
延宝9年(1681年)-篠塚山玉蔵院宗林寺となる。
享保3年12月11日(1719年)-上野より出火にて類焼。
享保4年(1719年)5月-今の地に鎮坐、当所の鎮守と奉る。
明治神仏分離令-玉蔵院宗林寺廃寺、篠塚稲荷神社が残った。
祭神-倉稲魂命。
明治以前荼枳尼天を祀っていたらしい。
大正12年(1923年)9月1日-関東大震災、被災状況不詳。
昭和20年(1945年)-東京大空襲、被災状況不詳。
本務社・第六天榊神社。
撮影アイ君-篠塚稲荷-平成18年(2006年)9月2日
篠塚稲荷-平成18年(2006年)9月2日.JPG

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント