Tokyo-34

Tokyo-34
台東区
21年1月9日(土)
台東区の寺社-6

浅草田町
万治3年(1660年)-砂利場、江戸城修築の際に砂利採取場となる。
宝永元年(1704年)-町として正式に認可される。
「泥町」と称し、後に「浅草田町」と改称、一丁目・二丁目となる。
砂利場跡は一丁目、二丁目には編笠茶屋が軒を連ねた。
一・二丁目の境に袖摺稲荷神社事「衽(おくみ)稲荷」があった。
明治11年(1878年)11月2日、東京府浅草区浅草田町。
明治22年(1889年)5月1日-東京府東京市浅草区浅草田町。
明治44年(1911年)-町名につけていた浅草は昭和22年(1947年)まで廃止された。
昭和9年(1934年)-一丁目の大部分が馬道二丁目・三丁目、浅草象潟三丁目に分割編入となる。
昭和11年(1936年)-一丁目の一部は日本堤一丁目、二丁目の全域が日本堤一・二丁目に編入、一丁目だけが残った。
昭和18年(1943年)7月1日-東京都発足。
東京都浅草区浅草田町一丁目。
昭和22年(1947年)3月15日-浅草区と下谷区が合併、台東区を新設、東京都台東区浅草田町一丁目。
昭和41年(1966年)10月1日-住居表示実施・町域は浅草六丁目編入
により浅草田町一丁目消滅。

浅草馬道町(あさくさうまみちちょう)
江戸期には日本堤に通じる道で栄えた。
明治10年(1877年)-浅草馬道町起立、一丁目~八丁目。
明治11年(1878年)11月2日-東京府浅草区浅草馬道町。
明治22年(1889年)5月1日東京府東京市浅草区浅草馬道町。
明治44年(1911年)-町名につけていた浅草は昭和22年(1947年)まで廃止された。
昭和9年(1934年)-区画整理で分断・統合される。
馬道の構成
馬道一丁目
馬道町三丁目・四丁目・五丁目・六丁目・八丁目、花川戸町、浅草公園地(五号地)の各一部が合併。
浅馬道町二丁目
浅馬道町五丁目・七丁目・八丁目、聖天横町、田町一丁目の各一部が合併。
馬道町三丁目
田町一丁目、千束町三丁目、地方今戸町の各一部が合併。
昭和18年(1943年)7月1日-東京都発足、東京都浅草区馬道町。
昭和22年(1947年)3月15日-浅草区と下谷区が合併、台東区を新設、東京都台東区浅草馬道町。
昭和40年(1965年)8月1日-浅草馬道町一丁目が花川戸一丁目・二丁目、浅草二丁目に編入。
昭和41年(1966年)10月1日
浅草馬道町二丁目が浅草三丁目・四丁目、六丁目。
浅草馬道町三丁目が浅草五丁目・六丁目。
浅草馬道町消滅。


被官稲荷神社
台東区浅草二丁目3-1(浅草寺)
由緒 
安政元年(1854)、新門辰五郎(しんもんたつごろう)の妻女が重病で床に伏したとき、山城国(現、京都府南部)の伏見稲荷社に祈願した。その効果があって病気全快、安政2年(1855)、お礼の意味を込め、伏見から祭神を当地に勧請(かんじょう)し、小社を創建して被官稲荷社と名付けた。名称の由来は不詳だが、被官は「出世」と解せば良いという。
 辰五郎は上野寛永寺住職輪王寺宮の家来、町田仁右衛門の養子。本姓は町田であった。輪王寺宮舜仁法親王が浅草寺 伝法院に隠居し、上野へ行くのに便の良い新門を造った。その門の番を命じられたので、新門辰五郎と呼ばれた。辰五郎は町火消十番組の組頭としても、多彩な活躍をした。
 社殿は一間社流造(いっけんしゃながれづくり)、杉皮葺、創建以来のもの。間口約1.5m、奥行約1.4mと小さいが、覆屋(おおいや)を構えて保護している。覆屋は大正期の建築であろう。社前には、「安政二年九月立之 新門辰五郎」と刻む鳥居ほかがある。
  平成4年(1992)11月 台東区教育委員会 
浅草寺の説明ページには次のように出ている。
通常、稲荷祭は、二月の初午の日に行われるが、本社では三月十八日に斎行されます。また毎月一日、十五日には社務所を開け、授与品を頒布しております。
被官稲荷神社-平成25年(2013年)8月27日
被官稲荷神社.JPG

箭弓稲荷神社(やきゅういなり)
台東区浅草三丁目19-4
旧住所表示-浅草区浅草馬道二丁目
創建-年代不詳。
祭神-記載文書なし。
浅草寺を雷門から本堂裏手の浅草寺病院で言問通りへ出て、信号を渡り左へ信号一つ目が雷5656会館。
会館に沿って右手へ入り二本目の路地を左へ入り60m程進むと右に鳥居がある。
鳥居には箭弓稲荷の扁額がかかり、境内は奇麗に整頓されていて、清々しい白い社に赤い扉。
鳥居、玉垣も奇麗だが目につくところに刻まれた文字はない。
湯島の下谷箭弓稲荷神社(台東区上野1-14-1)では埼玉県東松山市箭弓稲荷神社からのご分霊を勧請とあるが。


袖摺稲荷神社-袖寿里稲荷
台東区浅草五丁目48-9
旧住所表示-浅草田町一丁目
創建-源頼朝、豆州北条蟄居の時に稲荷の神体を彫刻し祀ったと伝わる。
北条早雲が城内に遷座、開運稲荷と尊称。
天正18年-小西半右衛門、神体と鈴とをもって墨田に仮殿を設ける。
仮殿を建てんとしたところ土中より十一面観音(金仏立像、丈九寸)が出現し、稲荷の本地仏なりと喜び本社へ移し奉った。
徳川四代将軍家綱公より町屋御免を賜り、当地へ遷座。
この地が袵(おくみ・衣類の襟)に似ていたことで袵稲荷とも呼ばれていた。
国会図書館〔江戸切絵図〕-嘉永3年(1850年)版
今戸箕輪浅草絵図-部分
今戸箕輪浅草絵図-部分.jpg
祭神-素盞鳴尊・稲蒼魂命。(平成二十年・袖摺稲荷神社)
お狐様-階段をあがると左に鍵、右に宝珠を持つこぶりのお狐様がお出迎え。


合力稲荷神社
台東区浅草六丁目42-8
創建-永禄年間(1558年~1569年)
中山谷村百姓一同にて郷中鎮守。
別当寺-修験道当山派、醍醐寺三宝院系の良法院。
本尊-荒波馬頭観世音菩薩。
力石(足掛石)-江戸の力持ち番付最高位東大関「卯之助」の文字が入る。
祭神-記載文書なし(保食命ウケモチノカミ)。
稲荷神社への変更時期は不明。
日本堤の土手下にあり、「土手のお稲荷さん」と呼ばれている。
合祀-馬頭観音
寛文3年(1663年)-徳川四代将軍家綱の御乗馬、「荒波」が日光詣の折に千住宿にて死亡した事を受け、荒波馬頭として馬頭観音も合祀された。
浅草神社の兼務社
合力稲荷神社-浅草馬三町会
合力稲荷神社.jpg

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