中国ドラマ「瓔珞-エイラク」-40

21年4月16日(金)
インロウが四十二話で乾隆十五年に魏貴人として円明園から延禧宮へ移る。
半年で魏貴人から令嬪そして令妃へ、富察皇后忌日に小嘉嬪(ジャーピン)の陰謀を暴いた。
四十九話、傅恒-霍蘭部出撃があり、インロウは騎馬の練習で落馬して腕を骨折。
袁春望が延禧宮に来た「半年怒っていた」と言わせてる、ということは年が変わって乾隆十六年のはずだ。
愉妃の捨て身の行いで純貴妃は答応に降格し、嫻皇后に殺される。
アルチンを自尽に追い込んだのは親蚕礼の日、日付は調べても出てこない。
円明園へ太后とインロウが向かった日は乾隆十六年二月のはずはなく、どう見ても乾隆十七年二月のはずだ。

五十八話、円明園からの弘暦への便りは、安の字で三十六回目。
太后に聞かれたのが五月、ミンユゥは「三カ月前」と答えた。
ということは月一の便りだから乾隆二十年二月。

傅恒が霍蘭部から凱旋、延禧宮にインロウが円明園から戻るのは五月以降。

乾隆十七年十二阿哥を産み、今年十三阿哥とインロウに言わせているが、十八年が弘暦五女で三歳で夭折、十三阿哥は乾隆二十年生まれ。
まぁドラマだから正史と違い二人子供が生まれたでいいのだが。
嫻皇后がインロウの位を上げると話したが実行した様子はない。
この三年の間に舒嬪は十阿哥を産んだが夭折、舒妃に位が上がり、嘉嬪も子供を産み嘉妃に。
本当の嘉妃(淑嘉皇貴妃)は四人の皇子の母親、この時期は十一阿哥を乾隆十七年に出産。

本当の舒妃はどんな女性だったのだろう、入宮してすぐの乾隆6年2月舒貴人、年内に舒嬪、舒妃には乾隆14年、乾隆42年50歳死去だが位は妃のままで、追封の記録はない。
郎士寧(ジュゼッペ・カスティリオーネ)の描いた絵もある。
舒妃-カスティリオーネ.jpg
「心写治平図巻」には右から乾隆帝、皇后、高貴妃、純妃、嘉妃、令妃、舒妃、慶嬪、穎嬪、忻嬪、惇妃、順妃、循妃が描かれている(ウイキペディアに画像あり)。
乾隆帝の所に元年とされ乾隆帝自署と伝わるが、妃嬪の描かれた年代は違う、位も違うし、嫻皇后が無いのが後から編集されたものと明らかだ。
下の位階にあてはめてもばらばらだが個別に書いたというより、基本の形へ肉付けしたらしい、20才前後とは思えない面立ちだ、どう贔屓目に見ても30才以降か。
ただカスティリオーネ本人は乾隆31年(1766年)に死亡し、後をほかの画家が引き継いだらしい。
高貴妃-雍正13年~乾隆10年-死去・純妃-乾隆2年~乾隆10年
嘉妃-乾隆6年~乾隆14年・令妃-乾隆13年~乾隆24年
舒妃-乾隆14年~乾隆42年死去・慶嬪-乾隆16年~乾隆24年
穎嬪-乾隆16年~乾隆24年・忻嬪-乾隆19年~乾隆28年

惇妃-乾隆39年~乾隆43年・順妃-乾隆41年~乾隆53年
循妃-乾隆59年~嘉慶2年死去


そういえばこのドラマ弘暦長子の安親王永璜に富察皇后の忘れ形見、固倫和敬公主もが登場しない、如懿伝では出番は多い。

五阿哥は栄純親王永琪-Yǒng qí(愉妃の子)ヨンチィだが年寄りにはヨンシと聞こえる。
・乾隆十七年・十二阿哥・永王に基-Yǒng qí(嫻皇后の子)ヨンチィ
乾隆17年4月25日(1752年6月7日)~乾隆41年1月28日(1776年3月17日)25歳死去
・乾隆十八年・弘暦五女・不詳(嫻皇后の子)。
乾隆18年6月23日(1753年7月23日)~乾隆20年(1755年6月1日)3歳死去
・乾隆二十年・十三阿哥・永璟-Yǒng Jing(嫻皇后の子)ヨンヂィン
乾隆20年12月21日(1756年1月22日)~乾隆21年(1757年9月7日)2歳死去。

・乾隆十七年・十一阿哥・成哲親王永瑆-Yǒng xing(嘉貴妃の子)ヨンシィン
乾隆17年2月7日(1752年3月22日)~道光3年3月30日(1823年5月10日)72歳死去。

・乾隆十六年・十阿哥・不詳-(舒妃の子)
乾隆16年5月19日(1751年)~乾隆18年6月7日(1753年)3歳死去。

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