横浜の遊郭と火事の歴史-2

2020年2月10日(月)
港崎遊郭-2
横浜港開港 安政6年6月2日(1859年7月1日)

港崎遊郭(みよさき・みよざき・こうざき・スワンプswamp)
多くは「みよざき」としてあるが、古老の昔語りはこうざきが多い。

1860 -横浜港崎町楼上之図-広重二代-万延元年(1860年)
1860 -横浜港崎町楼上之図-広重二代-万延元年(1860年).jpg

1860-横浜五十鈴楼之図-二代国明-万延元年(1860年)
1860-横浜五十鈴楼之図-二代国明-万延元年(1860年).jpg

岩亀楼娘手踊り
1864-岩亀楼-関の扉-芳員-文久3年(1864年)
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余談
「ふるあめりかに袖はぬらさじ」遊女喜遊(亀遊)最近では有吉佐和子さんの1972年「喜遊の死」からの戯曲化で改めて知った人も多いだろう。
岩亀楼遊女喜遊自害の図-松斎吟光
岩亀楼遊女喜遊自害の図-松斎吟光.jpg

横浜港崎遊廓の岩亀楼の遊女喜遊が「アメリカ人アボット」を客とするのを拒否、武士の作法による切腹をして果てたという筋書き。
つゆをだに いとふ倭(やまと)の 女郎花(おみなえし)ふるあめりかに 袖はぬらさじ
幕末の尊王攘夷思想を受け継ぐ壮士に大いに受けて流行ったというお話、史実と誤認されているのは明治時代に考証し、実在していないと証明されてからもなおも、お話を史実と誤認され続けています。
講談社のデジタル版 日本人名大辞典+Plusには1846-1862/63 幕末の遊女。
弘化(こうか)3年生まれ。嘉永(かえい)6年江戸吉原の遊女となり,のち横浜の遊廓岩亀楼にひきぬかれるとされ、さらに攘夷論者による創作という説もある。文久2/3年死去。17/18歳。本名はちゑ、とまでは書かれている。
文久2年(1862年)神奈川奉行所の調べでは、羅紗緬鑑札の所持者は500人もいたそうだがすべてが羅紗緬奉公の女性とは限らない、便宜上居留地に入るにはそういう形をとらざるを得ない時代だった。
文久2年から慶応2年頃までには異人館通いの羅紗緬が2400〜2500人にも増えたという
三田村鳶魚-異人嫌いな喜遊
攘夷党の宣伝・二様の遺書・『細見』にない名前・深川の医者の娘
喜遊の見知り人・埋め立てた港崎町・外人向きと日本向き
ラシャメソは人外・品川から横浜へ・喜遊が出て来ない
怪しい記録・作者は大橋訥庵か・今日の女は無恥
http://books.salterrae.net/amizako/html2/mitamuraijinngirai.txt
万延元年港崎細見の岩亀楼異人遊興揚屋の遊女23名にはなく新造13名にも喜遊(亀遊)の名はない。
39名を数える五十鈴楼にも載っていないのは先人が考証している。
実在説もあり横浜市史稿-風俗編ではそれをも紹介している。
温古見分彙簒-平林九兵衛編-明治32年9月-などの文献資料を数多く記載してある。
神奈川本覚寺に墓所があり佐藤家の過去帳に「俗名喜遊文久二年八月」とあるそうだが本覚寺の公式ページではそのことには触れていない。
源氏名を俗名とは言わんでしょ。
もう一つの墓所として吉田新田の栄玉山常清寺(現在は久保山)で火葬・埋葬とこちらの説が有力ですが。
喜遊の本名
日本人名大辞典+Plus-ちゑ
岩亀楼列所喜遊-喜佐
外事秘録・蔓延秘聞-間宮春枝-常清寺墓碑知恵
横浜市史稿 風俗編(昭和7年4月版)横浜市役所-堀田璋左右では二つの寺を調査したが確認は取れないとしている。


太田町仮宅
慶応2年11月(1866年12月)~慶応3年5月(1867年6月)
太田町二丁目(丁目が変更され今の五丁目、六丁目付近)


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