横浜の堀(運河)と橋 13

2020年1月31日(金)

吉田川と周辺の運河-1
吉田新田埋立開墾図によれば中心に中川が通り7本の橋がかけられていた。
新田総面積116町・約1万1504ha(約34万8千坪)
のちに新田の総面積56万8千坪、有租地35万坪、約22万坪は免租地・道路・河川の面積となった。
大水門→南一つ目-北一つ目・~・南七つ目-北七つ目→大堰

新吉田川-全長1412.5mの運河
吉田新田開発当時-中川
明治29年(1896年)2月新吉田川完成
(六つ目~七つ目付近で東へ、中村川へつなげる)
昭和47年(1972年)新吉田川埋立完成

中村川・分流→千歳橋→(分流・新富士見川)→日本橋→阪東橋→横浜橋→長島橋→武蔵橋→山吹橋→(接続・吉田川)→千秋橋→(分流・日ノ出川)南側接続・吉田川

地図と橋の変遷-上流南から北へ
橋の数と名前の変遷-地図上のみ・全8橋

3橋記載-中村川・運河吉田川→記入なし(千歳橋)→堀留?→記入なし(武蔵橋)→千秋バシ→吉田川
1877-改正横浜明細地図 新訂-尾崎富五郎-明治10年(1877年)9月

2橋記載-中村川→五つ目堀留→記入なし(武蔵橋)→千秋バシ→吉田川
1878-改正横濱分見地圖-尾崎富五郎-明治11年(1878年)

4橋記載-中村川→記入なし(千歳橋)→記入なし(日本橋)→記入なし(武蔵橋)→千秋バシ→吉田川
1882-新刻横浜区案内全図-久米原雪谷-明治15年(1882年

5橋記載-中村川→堀留→記入なし(日本橋)→脤バシ(ヒモロギバシ・長島橋)→記入なし(武蔵橋)→記入なし(山吹橋)→記入なし(千秋橋)→堀留→吉田川
1890-改良横浜全図-尾崎冨五郎-明治23年(1890年)

4橋記載-中村川→堀留→記入なし(日本橋)→長島ハシ→武蔵バシ→山吹バシ→堀留→吉田川
1891-横浜真景一覧図絵-尾崎富五郎-明治24年(1891年)

4橋記載-中村川→六つ目堀留→記入なし(日本橋)→長島橋→武蔵橋→山吹橋→堀留→吉田川
1896-改良横浜全図-尾崎富五郎-明治29年(1896年)

7橋記載-中村川→記入なし(千歳橋)→日本橋→横浜橋→長島橋→武蔵橋→山吹橋→千秋橋→吉田川
1910-改正横浜新地図-菅村孝三郎-明治43年(1910年)

7橋記載-千歳橋→日本橋→(阪東橋-大正15年(1926年)架橋)→横濱橋→長島橋→武蔵橋→山吹橋→千秋橋→吉田川
1920-訂正九版横浜市全図(有隣堂)大正9年(1920年)

「はしのはなし~吉田川・新吉田川に架けられた橋」を発行 ... -横浜市
千秋橋・武蔵橋・横浜橋・山吹橋


千歳橋
大正15年(1925年)8月31日鋼板桁橋コンクリート包装 -架け替え
電気局施工の震災復興橋

西側へ分流・新富士見川-昭和48年(1973年)埋立

日本橋
明治30年(1897年)頃? 架橋
昭和2年4月10日-工型鋼橋-架け替え

阪東橋
大正15年10月-肘木式鋼板桁橋-新設

横浜橋
明治30年(1897年)頃? 架橋
昭和2年4月10日-工形鋼桁橋-架け替え

東西横断・富士見川(明治29年埋め立て)

長島橋
明治30年(1897年)頃? 架橋
昭和3年(1928年)1⽉20⽇-工形鋼桁橋-架け替え

武蔵橋
明治30年(1897年)頃? 架橋
昭和3年(1928年)1⽉29⽇-工形鋼桁橋-架け替え

山吹橋
明治30年(1897年)頃? 架橋
大正15年12月14日鋼構桁橋-架け替え

山吹橋 - 横浜歴史情報マップ~横浜都市発展記念館

千秋橋
明治6年(1873年)頃?架橋
一時堀留して新吉田川部分の浚渫改良工事をしたのかもしれない。
明治29年(1896年)2月新吉田川完成
大正15年4月-板拱橋-架け替え

横浜真景一覧図絵-尾崎富五郎-明治24年(1891年)で掘留になっているのだが、元に戻って1880-改正銅版横浜地図-尾崎富五郎-明治13年(1880年)運河の名前は吉田川・1882-新刻横浜区案内全図-久米原雪谷-明治15年(1882年)でも千秋橋は載っている。
ここまで調べてあるサイトに行き着いた。

第950話 【大岡川】千秋橋の謎

第956話【横浜真景一覧絵図徹底研究】第一話
第986話【横浜真景一覧絵図比較】 その1
ここでは自分の持っていない横浜真景一覧図絵-明治35年(1902年)を使って説明をしている。
後述の日之出川についても説明があるが橋は他の地図(繪図)とは違いがある。
二つの地図の間に出た1896-改良横浜全図-尾崎富五郎-明治29年(1896年)では橋は4か所名前のないのが松影橋で、扇ハシ、日出ハシ、そして吉田川との合流点の権蔵橋とも読める橋、この橋は何度も名前は無いまま載っていても「川の町・横浜」にも出てこない、近くに権蔵橋(権三橋)があるのに不思議だ。

日之出川は地図(繪図)によって橋の数は変化が激しい、其れと自分の調べた資料には尾崎富五郎が明治26年12月26日に亡くなっていると出ている。


東側へ分流・日ノ出川

吉田川-全長400mの運河
吉田新田開発当時-中川
昭和47年(1972年)吉田川埋立完成

新吉田川-全長1412.5mの運河
明治29年(1896年)新吉田川完成
昭和47年(1972年)新吉田川埋立完成

工拱桁橋=I アーチ桁橋
工形鋼桁橋=I 形鋼桁橋
混凝土=コンクリート
拱橋=アーチ橋

中川-吉田川 
横浜市歴史博物館-歩いて調べる「吉田新田の開発」

吉田川-全長400mの運河
吉田新田開発当時-中川
昭和47年(1972年)吉田川埋立完成

(接続・新吉田川)→千秋橋→(分流・日ノ出川)→鶴の橋→権三橋→蓬莱橋→派大岡川
千秋橋下流から蓬莱橋までの400mが吉田川

地図と橋の変遷-上流(南)から
橋の数と名前の変遷-地図上のみ・全3橋

2橋記載-鶴ノハシ→蓬莱バシ
1875-改正新刻横浜案内絵図-五葉舎万寿老人(尾崎富五郎)(明治7年1874年~8年1875年版)

3橋記載-鶴の橋→記入なし(権三橋)→蓬莱橋
1877-改正横浜明細地図 新訂-尾崎富五郎-明治10年(1877年)9月

3橋記載-鶴の橋→仮橋(権三橋)→蓬莱橋
1878-改正横濱分見地圖-尾崎富五郎-明治11年(1878年)

3橋記載-鶴ノハシ→権蔵バシ→蓬莱バシ
1891-横浜真景一覧図絵-尾崎富五郎-明治24年(1891年)



鶴の橋
明治6年(1873年)頃?架橋
鶴の橋-明治6年4月鶴・亀・日ノ出ノ3橋に名ヲ付ス。(黒土)
大正15年3月17日-肘木式鋼板桁橋-架け替え


権三橋(権蔵橋)
明治6年(1873年)頃?架橋
明治25年(1892年)架橋
昭和2年(1927年)3月31日肘木式鋼板桁橋-架け替え


1892-横濱百景-權三橋
1892-横濱百景-權三橋.jpg
南から写した絵葉書なら日本メソヂスト横浜教会-蓬莱町1丁目5番地と紹介の絵葉書の教会と思ったが鐘楼が違うようだ、横浜上原教会百年誌に紹介されている画像も前記と同じだ。
他に鶴の橋から蓬莱町を写した絵葉書にも同じ鐘楼が写っていた。
ab.jpg


1908-降雪中ノ横浜蓬莱町川岸
1908-降雪中ノ横浜蓬莱町川岸-.jpg



蓬莱橋
明治6年(1873年)頃?架橋
明治33年(1900年)1月弓形トラス橋架橋 計画者 磯部為蔵
橋長17間3分(約30.9m)、橋幅3間(約5.5m)
大正15年12月14日-鋼構桁橋-架け替え

1900-横濱港町川岸-左蓬莱橋・正面豊国橋-鉄の橋の大屯所の望楼
1900-横濱港町川岸-左蓬莱橋・正面豊国橋.jpg



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