横浜の遊郭と火事の歴史-11

2020年2月20日(木)
岩亀楼と神風楼
横浜の遊郭を語るうえで抜かすことが出来ないのが岩亀楼(がんきろう)と神風楼(じんぷうろう)だ。

高島町時代の主な遊女屋
岩亀楼(一丁目富士見橋際海側)・神風楼(二丁目富士見橋際海側)・勢州楼・二葉楼・二神楼・天津楼・一月楼 
明治8年(1875年)10月神風楼新装3層の楼閣誕生

高島町一丁目→富士見橋→二丁目・三丁目・四丁目→萬里橋→五丁目・六丁目・七丁目・八丁目・大鷲神社・金比羅神社→月見橋→九丁目・十丁目・神奈川ステーション

岩亀楼
港崎時代
岩亀楼は品川宿飯売旅籠岩槻屋佐藤佐吉によってはじめられた。
御免遊女街假宅(駒形町)で港崎に先んじて見世を開いている。
廓名主として25年間の長きにわたり遊郭の総代として尽力した。
港崎時代はただ1軒の異人揚屋を許され栄華を誇ったのは、多くの横浜絵が証明している。
この当時異人館と和人館に分けられていて異人館に設けられた舞台の見物には日本人も見物を許されたが入場料一両二分も取っていた。
1日5回公演で娘手踊り、禿・舞子の芸を見せていた。
開港当時の舞子は小亀・小鶴・小花・小蝶・小房・小浦・小浪・小桜の名が残っている。
元治2年春には小浦・小房・小蝶・小常・小鶴・小兼・小亀・小花・小糸・小松の10人。
栄華を誇った港崎も慶応2年10月20日(1866年11月26日)の豚屋火事で廓は全焼。

港崎以降
横浜町の時代から異人揚屋の独占は許されなくなったが、高島町時代も先端を行く時計台を備えた見世は耳目を引きだたせるに十分の威容を誇った。
一丁目富士見橋際海側と伝わるが1881-内務省地理局測量課編横浜実測図-明治14年(1881年)によれば一丁目二番地と思われる。
明治5年10月、所は高島町一丁目富士見橋際海岸寄り、平屋45坪、2階建160坪、3階建105坪に及んだ。
明治14年4月には長者町仮宅へ移り、高島町の建物は暴風雨の被害によって取り壊された。
明治16年秋頃までに永楽町二丁目大門通り西角地に間口十一間・奥行十四間、3階建の新宅へ引き移った。
明治17年9月15日の大暴風雨で倒壊し廃業と史稿は伝えている。
ただし明治26年(1893年)の細見に岩亀楼・新岩亀楼の2軒があるのは謎だとしか言いようがない、娼妓は2軒合わせても19人という寂しさだ。

神風楼
港崎
伊勢楼当主の粂蔵は元治元年神風楼を弟綱吉に開かせたが、元治2年の細見には伊勢楼の名が見えない、伊勢楼は吉原町の明治2年の細見で再びその名を見ることができる。
この時代の伊勢楼・神風楼は大きな話題になることもなかった。
山口粂蔵 文政13年(1831年)~明治26年(1893年)
養子
山口千之助-富士家ホテル創業
嘉永4年(1851年)~大正4年(1915年)
富士屋ホテル(横浜高島町 神風楼支店 富嶽館)明治11年に箱根宮ノ下藤屋旅館を買い取り創業、明治16年焼失、再建、現存。
放送大学附属図書館
https://lib.ouj.ac.jp/gallery/koshashin/fujiyah.html

吉原町
港崎焼失後の吉原町では姪の山口とめに伊勢楼を譲り、粂蔵が神風楼を経営した。
明治4年10月27日(1871年12月9日)伊勢楼・神風楼ともに焼失、吉原町遊郭遊女屋の半分が燃え落ちた。
注-明治4年11月焼失(史稿.風俗編)

高島町
神風楼は高島町二丁目富士見橋際海側に移り、明治8年に城郭式三層の和洋折衷館を建て右翼を日本人、左翼を外国人専用とした。
この当時にネクタリン・ナンバー9(ネキタリンNECTARINE No.9)と名がついたとされている、二丁目富士見橋際海側と伝わるが、内務省地理局測量課編横浜実測図-明治14年(1881年)によれば二丁目四番地と思われる、9番地は四丁目になるのであてはまらない、番地からという説はおかしい、4番地の下区分に9号地でもあれば通説通りだが。

NECTARINE No.9のいわれは楼主も不明のままに過ごしてきたということで詳しいことは伝わっていないが、高島町の時代アメリカ人なにがしがNECTARINE No.9と書いてくれたものを入り口に掲げたそうだ。
史稿ではネキタリン、一般にネクタリン。

七軒町・永楽町
真金町-史稿では明治17年春に眞金町の新館に移ったと出ている。
永楽町1丁目6番地(山口とめ)-京浜名家総覧明治39年(1906年)
明治26年(1893年)の細見の書き方ならナンバーナインと神風楼の二軒が営業していたとらえられる、ただ永真遊郭の絵葉書ではナンバーナインの建物しか見つからない。
明治20年-七軒町へ高島町の建物を15万円かけて改装移設、こちらは明治33年に反町遊郭への移動をせず、永真遊郭のみとし真金町をNECTARINE No.9としたと史稿は伝える。
横浜貿易新報は七軒町神風楼が明治33年9月永楽町一丁目に移転との記事を出した。
またこれで話は振り出しかね、史稿を信じていいか貿易新報の記事を取るか、疑問もある、NECTARINE No.9としての番地は記録が見当たらない。
NECTARINE No.9の看板を写した写真は2種類、入り口の上NECTARINE No.9と破風の№9だ。
№9の大きな文字を破風に掲げたネクタリンナンバーナインの彩色絵葉書は数多く出ているが突き当りのトタン塀以外目安になるものがない、右側は庭園になっていて判別すべき建物は写りこんでいないせいだ。
富士見川の埋立跡からでは方向的に無理で大通りは第一三日月楼、もとの一丁目の通りがヨカロー、南側埋立跡の通りに第二勢州楼と一圓楼までが一丁目8番地、ヨカローの次は一圓楼の裏手で名前がわからない、その次が新岡濃楼で一丁目7番地次は神風楼の一丁目6番地となるはずだ。

ヨカローの写真にわずかに写る三角破風は確かにNECTARINE No.9と言えそうだ、その先が塀で突き当りかどうかがわからないのが不安だが。
トタン塀で遊郭が囲まれたのはいつのことだろう、神風楼の写真の中に塀が写るものはあるが年月は読み取れない。
さて史稿の記事を鵜呑みにはできなくなったぞ、永楽町だけという事もあるのかな。

大正大震災で神風楼の被災記事があるが、楼主は山口美代と替わっていて、建物が全壊し、生き残ったのは若主人と記事にある、以降の神風楼・NECTARINE No.9の記録は見つからない。


彩色絵葉書に岩亀楼は見当たらない。
私製絵葉書は明治33年(1900年)から使用が認められた。

参照-京浜名家総覧-庭山太郎-明治39年(1906年)等
神風楼-永楽町1丁目6番地
新岡濃楼-永楽町1丁目7番地
第一三日月楼-永楽町1丁目8番地
第二勢州楼-永楽町1丁目8番地
一圓楼-永楽町1丁目8番地
第一和廣楼-永楽町1丁目8番地
壽楼-永楽町1丁目14番地
金勢楼-永楽町1丁目16番地

二葉楼-永楽町2丁目17番地・西洋館、日本館
八幡楼-永楽町2丁目17番地
松島楼-永楽町2丁目20番地
一月楼-永楽町2丁目20番地
萬盛楼-永楽町2丁目22番地
橋本楼-永楽町2丁目22番地
二宮楼-永楽町2丁目22番地
勢州楼-永楽町2丁目23番地
三日月楼-永楽町2丁目26番地
寶槌楼-永楽町2丁目26番地
岩亀楼-永楽町2丁目大門通り西側-真金橋際-(この通りなら永楽町2丁目17番地)
蓬莱-永楽町
川泉-永楽町
いろは-永楽町

番地は通し番号で大門通の東側が一町目、西側が二丁目。
永楽町(一丁目1~16・二丁目17~25)
真金町(一丁目1~11・二丁目12~23)

金刀比羅大鷲神社-真金町1丁目3番地
三笠楼-真金町1丁目11番地
常盤楼-眞金町2丁目14番地
金月楼-眞金町2丁目16番地
天津屋-真金町2丁目19番地
一力楼-真金町2丁目19番地
蓬泉楼-真金町2丁目20番地
永盛楼-真金町2丁目20番地
海月楼-真金町2丁目20番地
金田楼-真金町2丁目20番地
市川楼-真金町
旭大黒-真金町
神風楼-真金町-明治17年移転-明治33年以降No.9(史稿) 

永楽町一丁目.jpg

永楽町二丁目.jpg

真金町-金刀比羅神社-一丁目・二丁目.jpg

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