謎多き寛永寺-3

20年12月22日(火)
切絵図や寺・神社関係の文書や、歴史と思われている文書を鵜吞みにしなくなったのは何時の頃からだろう。
よく参考にする江戸切絵図の間違いに調べが進むと多いことに驚いた。
東都浅草に描かれる寛永寺だが。
山門は文殊楼、別名吉祥閣。
山門を抜けると荷担堂。
法華堂(東)と常行堂(西)の間に渡殿を設けてあるので荷担堂(にないどう)と呼びならわした。
実はこの荷担堂、幕末の切絵図で文殊楼と記入され、文殊楼と吉祥閣が別の建物と思われることに。
寛永4年-東都下谷絵図-寛永寺
寛永4年-東都下谷絵図-寛永寺.jpg
東叡山中堂之図-勝春朗(勝川春朗-葛飾北斎)
東叡山中堂之図-葛飾北斎.jpg
寛永寺仁王門
寛永4年(1627年)-建立。
貞享2年(1688年)-焼失。
元禄11年(1698年)-黒門の右に仁王門を再建。
1ヶ月後に勅額火事-元禄11年9月6日(1698年10月9日)で焼失。
享保5年(1720年)-同所に再建も翌年焼失。
宝暦6年(1756年)-同所に再建。
明和9年(1772年)-大火で焼失。
これを最後に仁王門は再建されなかった。
明和の大火・目黒行人坂大火-明和9年2月29日(1772年4月1日)
類焼934町、大名・旗本屋敷は169家、橋は170橋、寺は382寺。
死者1万4700人・行方不明者は4000人とも云われる。

文殊楼
輪王寺宮公弁法親王の吉祥閣と書かれた額が掲げられていたため吉祥閣とも云われた。
建立-元禄11年(1698年)
町民にも登楼が許されていた。
本尊-文殊菩薩

公弁法親王(こうべんほっしんのう)
五代寛永寺貫首-大明院宮・後西天皇第6皇子。
元禄3年(1690年)-輪王寺門跡に就任、関東に下向。
元禄11年(1698年)-露座の上野大仏に仏殿を建立。
余談-鶯谷駅近く、根岸笹乃雪の初代は親王に従い江戸に出て絹ごし豆腐をつくり豆腐茶屋を開いたと云う。
根本中堂が出来てすぐ燃えたと書く人がいて驚いたが。
黒門・仁王門・本坊・厳有院(四代将軍家綱)霊廟などがこの火事で類焼。
元禄11年(1698年)9月3日落慶の根本中堂は勅額火事(6日)では燃えませんでした、文殊楼も無事。
勅額(江戸到着6日・東山天皇御宸筆瑠璃殿)はたび重なる災難も遁れ現在の根本中堂に掲げられています。

法華堂
建立-寛永4年(1627年)・紀州徳川家造営。
本尊-釈迦・文殊・普賢。

常行堂
建立-寛永4年(1627年)・紀州徳川家造営。
本尊-阿弥陀・観音・勢至。
摩多羅神も祀られていた。

文殊楼(吉祥閣)と荷担堂は上野戦争で(慶応4年5月15日・1868年7月4日)焼失。
戦で多くの建物が焼失したが、中堂は戦後に彰義隊が援軍を引き連れて戻ってくるとのうわさに、政府軍の手によって燃やされた。

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